昭和50年01月13日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてる(尽きる)と言う事がない。」
みてると言う事がない。此れは限りないと言う事でしょう。限りないおかげに繋がると言う事。それは信心をすれば誰でも受ける事が出来ると。教祖様がいい加減な事を教えておられるとは思われない。けれどもなら御道の信心をする者が、どの位沢山あるか解らないけれども、みてる程しのおかげを受けておる。あぁあの人こそ、そういうおかげを受けておられるなというのは、もう本当にまぁ言うなら数えるだけじゃなかろうかと思うです。ね。信心も親の代はしっかりする。
子供代迄はまあまあ孫の代になったらもう、金光様のかけらもないと言った様なね。そういう繰り返しの約言うならば十何年間だったと思うです。ですから教祖様が仰る、誰でも受けられると言う御神徳というのは、信心がね唯拝むとか参るとかという信心ではなくて、何処迄も言わば御徳の受けられる信心と言う事に焦点を置かれなければならない。しかも先の世までも持って行かれる、此の世にも残ると言うのであるから。
昨日は美登里会の研修会でしたから、もうそれこそ時間の経つのも忘れて、お話聞いたりさせて頂いたりした訳ですけれども、本当に最近の合楽の信心は、愈々その深さというか、広さというか昨日辺りの御理解を頂いておると、もう昨日はもうあの御理解を繰り返し、繰り返し皆さん頂く方が多御座いました。頂けば頂くほど素晴らしいだけではなくて、そのまぁそれこそ何と申しますかね、日暮れて道遠しという自分達のおる時点と言う物が、あまりにも幼稚である事にね、改めて気付かせて頂く。
まぁ此処でま信心の手本の様に、何時もまぁその代表の様にしてお話をさせて頂きます、熊谷さん又は、久留米の佐田さん。まぁ此のお二人の信心を取り上げて、まぁ色々話した事ですけれども、成程とてもとても、人の真似の出来ない信心をし、又本当に素晴らしいおかげを現しておられます。そらもう本当に、そらもう熊谷さんにしても、佐田さんにしてもそうなんです。
しかもならご両家とも改式までして、金光様信に気を通して金光大神のお取次ぎによって助かろうという信心が出来ると言うだけでも、大した事です。ね。先日から昨日一昨日、熊谷さんにあるま信心をま感じられるヒントを与えられて、改めて、まぁ言うならば信心の再出発。そう言われれば言われて見る程、その通りだと言う事から、此れからの信心の、本当の焦点と言う物をです。色紙を三枚持って見えてた。それでそのそれに、そこの大事な所を書いて欲しいと言う事で御座いました。
それも今度の青年会の新春パーティの時に引いた福引が「信心は家に不和のなきがもと」と言うのであった。普通は「信心は家庭に不和のなきがもと」である。此れはほんなら佐田さんにしろ、熊谷さんにしろもうそれこそもう、人にも羨ましい程の円満な家庭であります。家庭はですけれども家と言う事になるとです。ほんなら自分達の娘息子又は自分のほんなら、熊谷家なら熊谷家を中心とする人達はどうかというと、はぁお母さんがもう、合楽にのぼせちしもうてからと言う様なものしかないと言う事です。
改式しておられますから、この頃からもう二十五年の式年のお祭りをもう、実に盛大にありました。娘さん達も皆んな集まって見えてる、ね。けれどもですもうその金光様のおかげでと言った様な物はさらさら感じられない。唯、母が父のそれをするからお参りしておると言う様な物であって、もう私はこげん本当お祭りの仕え難いお祭りはなかったというて、後から話した事でしたけれども、唯ご長男の紀夫さん達夫婦がもう、あれ是と姉さん達の間に気を使うてね。そのされるのがまぁ救いであったけれども、ね。
この例えば言うならばこの頑固な子供達に分からせると言う事にならなければ、家の和と言う事にはならないのだと。お母さんが信心して頂くからほんなら私達娘、孫達までが、こう云う潤うておかげが頂けれると言う所迄行かなければ、本当の和じゃないんだと。此れは佐田さんの家にもそれが言えるんだと。それこそ家庭は円満だけれどもなら佐田を中心にしておられる親戚とか、又は娘さんとか息子さんとかというのは、まっ同んなじ様なとにかく永年それこそ、仏教の家で固まりに固まった佐田の家に、ね。
まぁ何か解らんけれどもそのまぁ、金光様のご信心がしかも信心するだけなら良いけれど仏壇も何もなくして、ね。外へやってしまってそして金光様一点張りになってとは、あまりの事だと言う様な雰囲気の中に何時も霊祭があるんです。だからそう言うほんなら親戚の方達にはです。成程金光様の信心するけん、あれ程しの助かりがあり此れはほんならあの世とても、此の通りのおかげを頂く為には、改式するのが当然である。当たり前であると解って貰うまでには、大変な事です。
というていうて聞かせる事はもう、それこそ水も漏らさん表現で言われるけれども、どっこい頑固としてそれを聞き入れ様としない。だからもう言わんで、唯自分の信心を黙った治めて行くと言うか、示して行く以外にはない。もう合楽で一番最高の、しかも手本になる様な信心をしておる人達が、まぁだその程度だと言う事である。後もう本当にその前途がもう、本当にですねまあだまあだもう限りない、此の人達が本当の信心になるというか、帰依する迄には大変な時間も要する事であろうと思うのです。
とても此れがね自力等で出来る事ではない。私は熊谷さんにその三枚の色紙に丁度、一昨日昨日と福引で頂いておられる、それと三つを書かせて頂いた。一昨日の御理解の中心でしたね人力ですね、人力です「人力を持って善に導く事は出来るが、善種の人を作る事は出来ない」善種と言う事は、良い種と言う事である。ね。人間の力で、ね。導く事は出来る。善導する事は出来る。ね。
例え昨日熊谷さんに申しました。本当に貴方の所の子供さん達に見る、まぁ何というですか。又ずっと見るなら素晴らしゅう出来てあります。ですから出来ておるとどうしてもそこに、そのまプライドも高くなる訳です。まぁ悪う言うと高慢ちきだとこう言う訳です。ね。だから熊谷さん貴方ももし、信心がなかったら同んなじじゃなかろうかと、私は思うと。けれども信心のおかげで善導されて、今日の熊谷さんがあるのだと。けれどもこりゃどうでも今のあなたが頂いておられる様な物を。
親戚中のもの言うなら取分け、自分の子供達に伝えて行く為にはです。こりゃもう種を変えにゃ出来んて。種まで変えると言う事はほんなら、どんなに手を尽くしても人間の力で種を変えると言う事は出来ない。天地金の神様、親神様のお働きを受けるより他にはないのだ。ね。此れが昨日の御理解でした。それを書いてあげました。人力を持って善に導く事は出来るが、ね。善種良い種を作る事は出来ない。それをおかげを頂きたいと思うなら、天地金の神様のおかげによらなければ出来る事ではない。
種までも変えると言う事。ね。此れが昨日出て来たと一昨日のそれは真理は、ね。真理本当の事という、真理は我々の幸福の全てを支配する無限の力であるとこういう。本当な事が解る。本当な事を行ずると言う事は幸福の全てを支配する、しかも限りない今日の御理解で言うと、ね。みてる事が無いというおかげに繋がる。そう言う力が頂けるんだと言う事。ね。そして初めてです言わば家に不和の無きが元と言う様なです、ね。一家所謂一家親族というかね、もうそれこそうからやから全てが金光様のご信心による。
その助かりが頂けれると言う所迄は、大変な事だと言う事です。ね。そこでねその本当な事を解ると言う事。私はその本当な事というのがです、ね。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来るという信心とは、言うならそう言うおかげの、無限の力を受けられる無限のおかげが受けられる、そういう信心に繋がると言う事は、本当の信心でなからなければ出来ない。昨日佐田のお婆ちゃんがお夢の中に、お夢の中とももう夢ともうつつとも付かぬ様な中にです確かに親先生のお声で。
三千三百万の徳を授けるとお声を頂かれた。ね。もうそれを頂いてから、まあだその夢やらうつつやら分からんなりに、その事の解釈を色々その考えておる所であった。そして覚めたらやっぱり夢であったと言う様な、そのお知らせであったどう言う事だろうかと。此れは例えば三千三百と言う事を縮めると、33と言う事になる33と言う事は、ね。此れを漢字で聞きますと参ると言う事。参る参ると言う事である。ね。七年前ですか、ね。合楽が此処に移って参りましたその年の寒修行に。
今度の寒修行はどうでも、一家中でお参りをしようじゃないかと。あの時分は五十日間で御座いましたが、五十日間一家中でお参りしようじゃないかという思い立ちをされて、参って来られる様になって、五十日経った頃には、もう止められないと言う事になった。そして八年間、ね。今日までそれが続いておると言う事。もう参った上にも参るということ。しかも、ね。三十三に零を一つ付けると三百三十である。また零を付くると三千三百である。零と言う事はゼロと言う事であり。
無いと言う事であり。虚しいと言う事である。自分と言う物を虚しゅうすると言う事である。ね。此処になって来る時に、今の合楽の信心がぴったり来る訳なんです。今まで二十数年の信心は成程神様を信ずる力は段々頂いて来た。ね。又おかげも頂いて来た。けれども自分の力と言う物を知っておるから、此れは私自身の事ですけれども。お導きをすると言う事を全然言わなかった。自分は例えば、千人なら千人しか持てる力が無い事を知っておるから、お導きでもされたら、ね。
今度はお導きをされた人は助かるかも知れんけれども、千人しかもてんとが、一人多なったら、一人は落伍しなけれがならない。だから私は絶対、二十五年間と言う物は、お導きと言う事は言わなかった。所が此の、合楽示現活動に私共が参画させて頂くと言う事になって来た時にです。今までのとはまた反対に、口を開けば合楽示現活動。所謂良いお導きをしなければならないと言う風に言ってきた。それは自分の力と言う物にはもう、限度がある事が解った。
そして初めてです、無限の神力にすがるより外には、もう手が無いと言う事に気が付いた。そこで自分と言う物を虚しゅうした。大坪総一郎と言う物を虚しゅうした。そして限りない神力に繋がった行く、言うならば自力を捨てて他力にすがると言う以外にはないんだと言う事になって来た訳であります。私が此れだけ頑張ったから、私が此れだけ力を受けたからというのは、もう人間の力人力には限りがある。それを捨てて神力に限りなく縋らせて頂く所に、限りない人力は湧いて来る。
その限りない人力というのが、佐田さんでいうならば、此処八年間のあのお参りの姿が、もう人力を超えたもう神力なのです。もう神様のおかげで参らせて頂いておるんです。もう嬉しゅうして楽しゅうしてと言う事なのです。しかも一家を挙げてと言う事なんです。成程人力を捨てる事によると、ね。無限の神力に繋がる事が出来る。その無限の神力を持って言うならば、信心させて頂こうというのが、現在合楽の信心の姿勢であります。そこでその事を境に表行と言う事を。
一切もういわば、ご法度と言う事になった訳です、合楽では。ね。火の行や水の行と言った様な、それこそ断食行と言った様な厳しい修行を、皆んなしておられましたが、そういう信心をしたらもう合楽の信心じゃないとまで、決め付ける様に変わって来た訳なんです。ね。所が最近私が感じさせて頂ますのに、その自力を捨てて他力というか。ね。此の信心の言わば難しさに、昨日の御理解に現れて来る訳です。もう限りない事。そして結局どう言う事になるかと言うとです。
もう実意丁寧神信心をさせて頂く以外には無いと言う事です。実意丁寧神信心と言う事です。例えば私が修行生の方達に申します。外にもうこの頃何も修行する事はないのだと。だからですほんなら朝晩のお努め位は、もうそれこそ一分一厘間違いの無い一秒だって、汚す事の無い様な信心になって行くとか。ね。もうこりゃ修行生としては当然の事。ほんなら、内外の清掃とか、ね。とにかく何事にも信心になれよというその事に焦点を置く以外にはないです。何事にも信心になれよという信心になるより他にはない。
昨日も申しました様に竹内君が此処で修行しております。四時の御祈念にそれこそ一秒だって遅れん様にという、神様にお願いをしたけれども、昨日前の晩に遅くなってお酒飲んだりしとったので、ちょっと寝遅れた。起き遅れた。それでまぁ一分か二分か遅れた訳です。そこで此処にお詫びに出て来ました。此れが以前ならね、例えば神様にお誓いをさせて居た大とるとが、今日は出来なかったから一週間なら一週間。十日なら十日断食させて貰うて、お詫びをすると言う事になればね。
それでお詫びが叶うた。又自分の心もそれで済んだ。だからおかげを頂いたけれども、もうそういう言うならば表行とか人力を持ってお詫びをしたんじゃ、もう出来んのだから、そういうお詫びをせんで済む程しの信心が必要だと言う事になって来た。お詫びをせんで済む信心。ね。そこでなら朝の御祈念に間に合う為には、晩も夜更かしはせんお酒なんかはその、酔う程には飲まんと言った様な、もう前の晩から心掛けると言う事、その事が心行だと言う事になってきた。
まぁその事のね微に入り細に渡って思えば思うほど、まぁいうならば表行よりも心行の難しさをもう本当に感じております。けれども此れはどうでも身に付けていかなければいけない。しかもその実意丁寧神信心が身に付いて来ると言う事がです。限りない言うならば心行に繋がる事であると同時に、限りない無限の神様の御神徳の頂けれる信心に繋がる事が出来るんだと言う事が、段々解って来た。
昨日一昨日でしたか、日田の田中さんが御祈念が終わってから、そこでお届けをまっておられる間に、ふっとその眠った訳でもないのにその、そらもうまさしく御神願ですよ。しかし有難いですね、まぁだあぁたほんの近頃、信心を始めなさったばかりで。成程無い命を助けて頂く程しのおかげを受けられた方だからでもあろうけれども。その神様がそんなお知らせを下さるなんて、本当に有難いですねというて話した事でした。それがね此の位ばっかりのその松ノ木を一本頂かれた。ね。
根引きにすれば根引きの松という、あの小さい松がありますね。そういう松を頂いた。だからもう田中さん、今年という今年は、愈々この松の信心で行きなさらないきませんよ。松の信心と言う事は取りも直さず、合楽の信心と言う事でもあるけれども、松の字と言うのを、分解すると木偏に公と書いておる。気は心というから、ね。言うならばその心をです、公の事に向けなさい。もう玉川製材所大きな製材をなさっておられる訳ですけれども、もう自分とか自分一家とか、自分のお店と自分の子供息子。
勿論願わにゃおられませんが願いますけれども。それではねあまりに小さい。少し公の事。それをまぁ天下国家の事までも祈る容認らなければなりませんけれども、先ずは合楽教会を中心にして、合楽教会の言うなら、大発展を願われる様な、今年は信心で行かなきゃいけませんねと言うて、まぁ申しました。此れはね自分と言う物を、虚しゅうしなければ出来ませんですそういう祈りを。ね。
だからその虚しゅうして行くと言う事が、三十三に零を一つ付けて行く。又零を付けて行く。そして始めて三千三百と言う事になって来る様に、私は信心とはそういう、自分と言う物を愈々、虚しゅうして行くと言う事。所が信心させて頂きゃ、なんて言うですかね。御所根性というて信心の根性が、それは何処までも自力の信心をするからなんです。私が毎日参りよる。私が水かぶりよるけん、断食してからお参りしよるけん。そういう信心では、もう合楽では通用しない事に成って来た。ね。
そう言う物をかなぐり捨てて、もう貴方のおかげで信心が出来ると言う信心に進めというのである。そんなら腕こまねいとって良かというと、そうじゃないのです。ね。佐田さんの例を取りました様に、五十日間のはずのつが、もう八年間続いたと言う事。五十日間は自力であったけれども、後の七年間というか、八年間はもう神様のおかげで、もう無限の神力によってお参りさせて頂く事が出来る様になり、今日の佐田さんのおかげがあり、今日改式と言う所までの、言うならばおかげを受けられた。
此れは熊谷さんにおいても然りと言う事が言えるのです。ならそれでも尚且つまぁだ肝心要の娘達がね、まぁだいうならば椛目の先生と、とにかく神様をねそれこそ見るとですね、それこそ坊主憎けりゃ袈裟憎かと言うごたる風でですね、もう先生まで面でん見ろごつなかち言うごたる顔しなさるです。本当ですよそら此処へほんなら参って来とってもです。とにかく私に一言の挨拶も無いですよ娘さん達は。
ほんに日頃お母さんが大変お世話なりました位名事はいう。大体言わにゃんけれども、それこそ坊主憎けりゃ袈裟憎かじゃないだろうかと思うです。こりゃ佐田さん所だって同んなじ事です。ね。此れ程佐田一家の者が一生懸命になっておるのに関わらずです。ね。それがこう段々段々、そのほんならその有難い者が染み通って行く様に。今度佐田さん所まぁ、佐田さんの弟さんが今、お医者さんをなさっておられるのが、今アメリカの方へ行っておられます。先日から帰っておられて、昨日又あちらへ帰られました。
一昨日見えてお神様を、今度はお供して帰られました、ね。もう本当にそう云う様にね。その合点が行く解って来ると言う事です。ね。それでまぁだあれもおる。此れもまぁだ解って貰わなければならない人達が、佐田さんにした所で、熊谷さんにした所で、まぁだこりゃ愈々長生きのおかげを頂いて、此処の所のおかげを頂かなければいけませんねというて、まぁ話した事です、昨日。もう合楽で最高の信心をしておって、まぁだ唯そこの辺だと言う事ですよ。ね。
其処でなからなければです、ね。先の世まで持って行かれ子孫にまでも残るち言う事になっていない訳です。まぁだ。ね。それこそ此の方は一代仏を嫌うと仰るが。はぁお婆ちゃんは、ああいう熱心な信心をして御座ったが、二代になったら三代になったら、もう金光様のこの字も無いと言う様な、私は例と言う物を沢山知っておる訳です。そこで合楽に御神縁を居た代取る人達は、先ずは自分の家庭に、自分の言うならそういう一家眷属が揃うてです、ね。金光大神の信心に帰依出来る様な願いと言う物は。
自分が導こう、自分が話して聞かせようじゃ、もうとても出来るこっじゃない。もう神様のおかげを頂かなければ出来る事じゃない。その神様のおかげを頂く事の為にです。言わば無限の神力に縋らなければならない。それには愈々本当な事が解らせて貰うてです、ね。幸福の全てを支配する所の無限の力を受けていかなければならんのであり。人力を持ってして成程善導は出来るかもしれない。言うて聞かせて解らせると言う事も出来るかも知れないけれども、その魂迄も変える事は出来ない。
種までも変えると言う事は出来ない。赤を白にする事は出来ない。それが可能であるのは、神様の無限力にすがらなければならない。そういう神の無限力にすがる手立てが出来た人を、私は御神徳を受けた人達だと言う風に思うのです。先日から御本部の金光一道先生からのお尋ねで、金光大神の中に現れておる所の、様々な信心が教祖が表現しておられるのが、心甚だしと書いて、しんじんと読ませておられる。心の神と書いて、それを又しんじんと読ませておられる。
又は信ずる心と書いて信心と読ませておられる。またはひらがなで、しんじんと書いて信心と読ませておられます。だから教祖のお心というのは、何処にあるのか、どんなに研究しても解らない訳です教学者はでは。そこで合楽の先生にお伺いをしてくれないかと言う事で、上野先生がその手紙を受けましたので、お伺いさせて頂いて頂きましたのがです。心甚だしと言う事は、心が甚だしく動くと言う事であり。言うならばそこに舟があるならばです。その舟に乗って艪を操って行くと言う事なのだと。
舟があっても乗り手がなかったら、もうその舟の用は足さない。如何に天地の親神様だというてもです。拝む人がなからなければ、縋る人がなかったら、天地の親神様も在るも無いも同んなじ事である。それをほんなら心甚だしゅう動いて、その艪を操る事によって目的の悲願に到達すると。ね。それこそ自分の心と言う物が、あるやら無いやら解らない。神様とても声もなければ形も無い。ね。
そう言う在るやら無いやら解らない心で、在るやら無いやら解らない神様を拝ませて頂くという。それこそ溺れる者は藁をも掴む様な心境でしょうけれども、実際に実際に。門を叩いて見ると、応と答えて出てきて下さるのが神様なんだ。そこに体験がおかげが受けられるのが信心。そして成程神様ちは御座るばい。此れを神様のおかげと言うのであろうかというおかげが頂ける。そこから信心が生まれて来るのだと思う。信ずる心がである。合楽の信心は、まぁざっと言うならばです。
此処の信心迄がです合楽示現活動が始まる以前の信心であった。神様を信ずると言う事に置いてはです、合楽に御神縁を頂いて、修行でもさせて頂いておる方ならば、もう本当に確信に近い神様を、皆さんが頂いておった。ね。けれども一番最後のしんじんと言うのは、見やすいという信心なんです。信心とは見やすい者じゃが、氏子からむつかしゅうすると仰せられる様に。信心は難しい物じゃない。みやすうする。その見やすい信心とはです。ほんなら自力を捨てて他力に縋る。
自分の人間の力と言う物を、一遍ゼロにして、ね。神力に縋る所から生まれて来る、次の信心を、私は見やすい。所謂佐田さん達の今の一家を挙げてのあの信心が、佐田さんほんに金光様の信心ちゃそうにゃ難しかでしょうねと、まぁ誰かが問うたと致しますなら、とてもそげな段じゃなか。有難うして楽しゅうしてとても朝参りは止めはされんと言われるに違いはありません。もう佐田さんの場合、熊谷さんの場合は信心がもう、みやすうなって来ておる訳です。
だからこそ私はここ二三日、熊谷さんの事をもう散々です言うならば。そげんあぁた、ひどい事言いなされんでんと言う様な表現で、熊谷さんは今お試しを受けておられます。ね。けれどもそこ迄も出来ておられるのだから、なお惜しい訳です。だからもう一つ信心が、一段と進む事によってです、一家眷属の者が信心に成らせて頂ける様な、ね。おかげを受けてくれよ一代仏じゃいかん。
子に孫に愈々伝わって行く神徳とは、あの世にも持って行け、この世にも残しておけれると言う程氏の物だから、そこまでの信心を高めてくれよという働きであるとしか思われません。ね。田中さんじゃないですけれども、その小さい松だけれどもです。それを今の合楽の信心は、小さい松でしょう。だからまぁだまぁだ、此れが大きな松になる迄には、まぁだそのそれこそ、まぁ気が遠なる位にです。とてもと思うごたるけれども、それを育てていく楽しみ。ね。
どう言う事かというと。気を公に言うなら松の信心。愈々心をです天下国家の事が、もう本当に祈らなければおられないと言う事になって来る時に、初めて本当の意味においての、合楽示現活動と言う事に成って来るのです。ね。世界のもう総氏子の一人一人に、ね。和賀心時代を作るという運動がなされると言う程しの事に成って来るのです。神徳は信心をすれば、誰でも受ける事が出来る。
今日私が皆さんに聞いて頂ました様な一端はです、皆さんが身に付け様となさる所からだけでなからなければ、神徳は受けられないと言う事です。そういう信心です言うならば、自分を虚しゅうしてもう神力に縋り切らせて貰えれる。もうその中に突入してしまう。ね。人力を捨てて神力に縋る。そこから無限の人力が生まれて句る。この無限の人力と言うのは、もう限りない言うならば、神様の働きと同んなじ性質の物なのです。ね。そこ迄のお互いが信心を一つ進めて行くと言う事、ね。
其処からですそれこそ家柄一筋となってと教祖が仰る様にです。ね。種までもと例えばあそこは拝遙筋とか何とか言うでしょう、ね。例えばそう言う拝遙筋なら拝遙筋がです。ね。家柄一筋となって改まって健康の種が、其処に頂ける様なおかげになって来る。此れは拝遙というだけの事じゃありませんよ、ね。いろんな家に廻りの元がありますよ。ね。もうそれが生活の中に入り込んでしまってます。
それを愈々有難いものにして行くところの、種代わりがする位な、良い意味においてのおかげを頂いて初めてね。愈々子々孫々までに信心が伝わった行く事になるのじゃないでしょうか。ね。私共が如何に。例えば熱烈な信心をさせて頂いておっても、それが一代仏に終わる様な事ではなりませんので、ね。神徳は信心をすれば、誰でも受けられる。その誰でも受けられる信心。それにはほんなら心甚。
心神信心しんじんと四つありますが、信心がみやすうなって来ると言う所迄行かなければ、私はそれが子供にも孫にも残って行くと言う程しの働きは生まれて来ないと思うです。ね。そこに初めてみてると言う事がないと仰せられる、そのみてる事がない信心に繋がって行く事が出来るのです。どうぞ一つ限りないおかげに繋がらせて貰えるおかげを頂く為に、一つ先ず人力をなくしなければいけません。私がという我を取らなきゃいけません。ね。神様のおかげでという信心を愈々頂きたいもんですね。
どうぞ。